アート作品と書とミジュ

amigo_kimura2007-05-13

アート作品用の額縁が出来たので、昨日稽古の後で吉祥寺に取りに行った。ちょっと紙がたるんでいるけど、まあいいや。
階段の前に置くと、アレキサンドルの作品と、わしのへたくそな書と娘とで面白い構図になったので、パチリ。


昨日の稽古では、自由時間に腰投げを集中して練習した。今年の初段審査を念頭においてのことだ。
しかし、有段者でもまともに出来る人があまりいない。どういうこっちゃ。稽古中もあまりやらないんだよね、腰投げって。
なにが難しいかというと、柔道の背負い投げと比べると、相手を回す方向が違う。
背負いの場合、自分は左周りに入って自分の右腰を相手につける。相手は自分の右側から前の方に投げられる。ところが合気道の腰投げの場合、同じ条件で相手に入ると、自分の左腰側から投げる形になる。これがどうもまだしっくりこない。

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古事記を読み終えて、今は沢木耕太郎の「象が空を」

象が空を 1982~1992

象が空を 1982~1992

というエッセイ集を読んでいる。驚くことに、沢木は吉永小百合美空ひばりを取材していたのだ。美空のエッセイを読んでいたら、なんとなく聴きたくなり、吉祥寺で額に絵をはめこんでもらっている間に、CD屋で購入した。美空は若い頃は演歌というよりも、マンボみたいな曲を歌っていたのだなあ。
自分は、川の流れのようにとか、愛燦々はどうでもよく、「港町十三番地」が入っていることがCDの選定条件。
桜木町の「パパジョン」でかけてくれた、ブギウギ調の曲は残念ながら入っていなかった。


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前述の「象が空を」を読みすすんでいくと、なんと今度は藤原新也論みたいな短いコラムがあった。
沢木と藤原は、ともに海外放浪もののノンフィクション?で有名になった作家だが(いわずと知れた「深夜特急」と「インド放浪」)お互いに接点はあるのだろうかとずっと思っていた。
上記のコラムの中で沢木は、「東京漂流」において「論を展開する根拠に飛躍がありすぎる」といったことで、まあ藤原批判をしている。
藤原はどうか知らないが、沢木の方の藤原への対抗心は相当強いものがあるのだろう。

藤原については、まあ自分は藤原教の信者に近いメンタリティーがあるので、前にもちょっと書いたが「彼は、例えば世の中のやるせないものを見たときは、写真のフレームですべてを悟ってしまう」から、読む人が読むと飛躍に思えるのは仕方がないと思う。
それにしても「コヨーテ」という雑誌は、この藤原と沢木という二人の作家に寄稿させているのだから、なかなかすごい雑誌だ。