3月11−13振りかえり

あれからもう2週間。
アメリカ人の友達ジェームズは早々に日本脱出。
うちの嫁と娘は今日の昼から松本に疎開

ワシは、今週はじめの鬱々として気分からようやく脱出。
備忘録的にあの三日間を振り返ってみたいと思う。

■3月11日(金)
朝10時から大宮のソニックシティで会社のミーティング。
11時ごろ終わって、同僚の三人でやまびこで仙台に向かう。
昼過ぎに着。とりあえず駅ビルでお約束の牛タン定食、たしか
1470円。その向かい側に寿司やが3軒ぐらい並んでいて、
帰りには少しつまみたいな、みたいなことを同僚と話す。

駅から徒歩15分ぐらいのところにあるホテルに向かって歩く。
かなり寒くなってきた。それにしては薄着で来てしまった。
ホテル着(リッチモンドだったか)。
2回の部屋では札幌営業所の人たちがミーティングしていて、
3時に乗り込む予定。
廊下で資料などを用意していると、大きな揺れが来た。
あれ?普通の揺れじゃないぞ、やばいやばいと3人で騒ぎだす。
部屋の中の人たちも出てくる。
ほとんど波乗り状態。外を見ると、バスがグラングラン倒れん
ばかりに揺れている。
でも、壁が壊れたり、天井が落ちてきたりはせず。

スタッフのお姉さんが「免震構造ですから・・。」と。
一応外に出るよう促される。
外の駐車場スペースに宿泊客やらなにやら30-40人が集まる。
ホテルから毛布の支給。
強い余震が何度も来て、フォーマの地震アラームがその都度鳴る。
雪がちらほら。

ホテルとつながっているロイヤルホストを解放してくれて、
そこに移動。

上司が別件でドコモさん(仙台の)に来ているはずなので、
連絡をとろうとするがなかなかつながらない。
4時ぐらいにショートメールが来て、向こうは泊まることもできると。

しかし、こちらは総勢12名ぐらい。

とりあえずワシともう一人で偵察に。

外は雪。信号は消えているが、特に混乱はなし。

ドコモ東北支社のビルはすごく立派。15分ぐらいで到着。
1階ロビーで上司がいて、ドコモ東京のお兄さんもいた。
当方の状況伝えると、「何人でも連れて来て下さい」という
有りがたい言葉。

もう一度ホテルに戻り、他の客もいて途方に暮れているので、
管理職の人に「受け入れてくれるので、移動しましょう」といって
我が社員だけ集団移動。6時前ぐらいに到着。

夜飯は、暗くてわからないが、酒屋みたいなところで、カップめん
を手配してもらって、暗闇でガチガチのどんべえをすする。

そのあと全員で14階へ歩いて移動。自家発電は1階だけなので
上に行くと真っ暗に。
14階もかすかなあかりはあったが。

そこに、D社さんの社員さんが40人ぐらいの中に混じらせて
もらう。
とりあえず、乾パンやら冷たい飲み物をいただくが、みんな
だんだん口数が少なくなる。
この時点では「津波で数10名死亡」というニュースだったが、
まさかこんな規模になるとは・・・。

ドコモさんは、寝袋まで提供してくれて、となりのだだっ広い
部屋でとりあえずごろ寝。 それでも暖房がないので寒かったが。

そにかく一晩中ゆらゆらで、14階なのでいつまでも揺れている
感じだった。

■3月12日(土)
7時ぐらいに1階に下りると、一般の人数10名が雑魚寝をして
いた。

われわれは、東京に帰る方法をいろいろと探るが、新幹線ダメ、
東北自動車道ダメ、レンタカーダメ。
上司は「もう車買っちゃおうか」と訳のわからんことを言うが、
「買えるわけないでしょう」と。
東京からコースターを向かわせる、なんて話も出たが、そもそも
道路がダメ。

夕方になって、わが社の仙台営業所に電気が来ているという情報
が来て、移動することに。
7時前ぐらいに到着。確かに電気は来ていて、少しほっとする。
そこで飲んだコーヒーの美味しかったこと。

だが、暖房はガスでこちらはダメみたい。
そのあと、会社の力で東横インが押えられたので、また移動。
だが、東横インって、あの構造問題があった・・・?。

東横インのロビーはなんかすごい雰囲気になっていて、殺気だって
いる。
従業員は若いお姉さんたち6名ぐらいが私服で必死に働いて
いる。
とりあえず、無事キーをもらってチェックイン。

そこからが変なんだが、下着ぐらい替えたいだろうからと、
下着買い出し班と、食糧買い出し件、食事できる所探す班に
分かれて行動開始。
でもさあ、こういう時にあまり外をうろちょろしないほうが
いいんだけど・・、と思ったが会社組織なんでね。
ラーメン屋一軒発見。客はいっぱいカウンターに座っているが
みんな押し黙っている。作っているのはおっさん一人。
「これからあと10人ぐらい出来ます?」と一人が聞いたら
「無理だね」だと。そんなんなら開くな!

そこで上司が懲りずに探して魚民を見つけてきたが、こういう
状況で居酒屋行く気が知れなかったので、もう一人ととっとと
宿に帰った。

東横インで湯につかって、ビールも飲んでと、あとは寝るだけ
なのだが、なにせ余震が読めない。

ここは腹をくくって、外出する服を来て、荷物もまとめて、
なんと靴もはいたままベッドに入った。

時々強い揺れが来て、「やばい、強い揺れ」などツイート
しながら。

■3月13日(日)
6時過ぎ起床。 疲れはまあ取れている。
8時集合。
また、食料班、レンタカー班等に分かれて行動。
ワシは札幌のマネージャーとレンタカー班。
4軒ぐらい回るが全くだめ。一軒は「車がどこに行ってるか、
まったくわからないんです。店ごと流されたところもあるし」
と、ほとんど泣きそうな状態。
ワシは「Mさん、もう合法的なのは無理ですよ。こういう時は
政治家かやくざしかないですね」と言った。
だが、政治家に知り合いないし、もう一方もねえ。

とりあえずホテルに戻りつつ、「山形から飛行機が飛びはじめ
ているということは、山形からハイヤー呼んだらどうだろ」
と思い、ホテルのロビーでみんなで山形タクシー、ハイヤー
探し、運よく山形から呼んで、新潟まで行ってくれるタクシー
と話がついた。
12時過ぎにバンと乗用車2台到着。
なんとか仙台脱出。
5時間半ぐらいかかって新潟着。
上越新幹線で無事東京着。


というのが、ざっくりした時系列的出来事。

しかし、この時は自分たちのことだけで必死で、10キロ先で
大勢が津波に飲み込まれて死んでいるということに、気が
回らなかった。

この2週間、ニュースを見るたびに、「怖かっただろうな、
痛かっただろうな、冷たかっただろうな、つらかっただろうな、
悔しかっただろうな・・」
と思うといたたまれなくなっていた。


今年はIPADで人生観が少し変わり、この地震でさらに変わって
しまったような気がする。

今回の震災で死者は3万は軽く超えるだろう。
ワシは、5万は超えてしまうのではと思っている。

亡くなった方々は、日本と日本人に身を呈していろいろなことを
教えてくれた。

この国が全国地震列島であること、本当は立ててはいけない
原発を50数基持ってしまったこと、海岸線はすべて津波
危険があること、今後のエネルギーの課題、食糧、水の問題。

これらの問題を一から考え直し、自分らの孫の代まで安心して
暮らせる国をどうやったら作れるのか??

このあたりをみんなで考え行動することが、亡くなった方々
の最大の供養になるのかもしれない。


自分はいつまた東北の地を踏むのか、もしかしたら来月かも
しれないけど、その時はがれきの中で、般若心経を心を
こめて唱えたい。