トーチストーリー3

前回どこまで行ったかな。

1月某日、覚えている光景はリレー出発日の前夜、ひめゆりの塔の場所に作られたステージで、赤井英和さんがリハーサルをしている様子。残念ながら、1998年当時はスマホではなく、ガラケーのさらに2世代以上前の大きな携帯だったので、サクッと写メなんて芸当はできなかったのだ。それどころか、長野五輪聖火リレーの写真というものが、自分のところにはほとんど存在していない。当時はもっぱら「写ルンです」が流行っていたような記憶が・・。

個人的な用事で、ひめゆりの塔の戦死者石碑の中から、父親の兄(沖縄で敗戦3か月前の5月6日に爆死)の名前を苦労して探した。確か、石狩支部のところにあった。テレビでよく出てくるように、自分も名前を指でなぞってみた。あと3か月逃げ延びたら会うこともできただろうになあ。しかし、父親はワシのことをその戦死した兄貴の生まれ変わりと信じていた節があるから、そこで戦死しなければワシも生まれなかったということになる。その答えは誰にもわからない。

 

さてさて、長野聖火リレーの広報作業は大きく下記のような感じだったと思う。

1.メディアトラックでのメディアのさばき

2.沿道のメディアのさばき

3.終了後のメディアハドル対応(囲み取材的なもの)

 

1については東京2020では発生しなかった。なぜならすべてがNHKさんが動画の公式代表取材、スティルについては、ローカルメディアと委託会社からの2名のみが、メディアカーに乗ることが許されていたから。

長野では、動画はNHKさんだったと思うが、スティルは5-8ぐらいのメディアが呉越同舟。場所取りで喧嘩になることもままあり、それを調停するのが組織委広報の役目だった。そのメディアカーたるや、4トントラックの後ろの扉を取っ払って、手すりをつけただけというおそまつなものだった。

そして問題は、メディアトラックと聖火ランナーの間になぜか県警さんのパトカーが。

画的には聖火ランナーの前に必ずパトカーが映ってしまう。それはいかんと思い、県名は25年経っても伏せるが、「すみません、県警さんのパトカーはランナーの後ろに移動していただけませんか」といったところ、イベントが終わったあとだったか、「組織委広報の木村から、パトカーはどけと言われた」というクレームが届いたのであった。

本人はまったく意に介さずだったが。

ちなみに、東京2020ではさすがにそのようなおろかな隊列にはなっていなかった。

 

いやー、しかし、写真どこかにないかなあ。