31歳で9年働いた会社を辞めて、カリフォルニアにゴルフをしに行った。
1年間500万円ぐらいの「ゴルフ留学」というビジネスモデルが当時あった。
結局1年ではなく、3年居てしまった。
その時のことの一部は下記に17年前に書いた。
さて、3年間のアメリカ生活を終え、1997年5月から3か月、ニュージーランドのゴルフ留学の手伝いもし、日本に帰国した。
あ、ちなみにその時期のニュージーは真冬で、真冬のゴルフという貴重な経験をした。
場所は北のハミルトン。
さて、横浜の実家でぶらぶらしていたら、前職のイベント関連の責任者から電話がかかってきた。
「おーい木村、今なにやってんだ?」
「アメリカとニュージーランドから帰国してブラブラしてるんです」
「お前、長野オリンピックの聖火リレーの仕事、手伝ってくれないか?」
「あー、いいですよ、わかりました」
ということで、怒涛の長野五輪聖火リレーに巻き込まれることとなった。
長野の時は、3ルートあり、札幌を出て南下するルート、鹿児島を出て太平洋側を通るルート、そして沖縄を出て日本海側を通るルートで、自分は最後の沖縄発日本海ルートの担当となった。
ちなみに長野は、1ルートにつき2班用意され、一つ飛ばしで先乗りするという方式を取った。
2年半前の東京五輪は、1班の一筆書きだったので、それだけでもキツいということになる。
さて、1997年秋口に始まった聖火リレー仕事の最初は、なんと日本海ルートを通る各府県の県庁への謝罪行脚だった。この時点で、聖火リレーの概要を何もインプットしていなかったというのが理由らしい。1週間から10日で、15府県を訪れ、わけもわからず謝罪するという、犬の使い以下のことをやり、福岡のビジネスホテルでは高熱を出してしまったが、そのまま謝罪行脚を続けた記憶がある。
今回の東京オリパラではさすがに組織もしっかりし、運営もしゃんとしていたように見えるが、実態はどうだったか?
実は、連絡用のプラットフォームが3つもあり、自分的には混乱を極めたように思う。
そもそも簡潔な組織図がない。誰が何を担当しているのかがわからない。
長野の時は、シンプルな組織図がペロっと1枚あり、そこに携帯番号が書いてあるので、何の件は誰ということが一目瞭然でわかった。ちなみに自分の携帯は、なんと個人携帯だった。
ということで、第二話につづく。